牧師紹介

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牧師略歴及び教会設立まで経緯:

本名、古林 真理樹。ヘブル語で「王」(神から遣わされた使者の意)で、旧約聖書最後の預言者マラキ書より命名された。
1964年9月6日、米国テキサス州ダラス生まれ、日米二重国籍。父、古林三樹也が牧師になるためにダラス神学校で学んでいた事情による。両親の帰国にともない、2歳の時に彼らの出身地、大阪へ移り住み、そこで育つ。

 

幼少期:
父の専門が、当時の日本では珍しかった「キリスト者教育」であったこともあり、幼少の頃より読書と感想文、さらには絵日記やマンガの図柄の練習、写真撮影、さらには読んだ新聞の記事のスクラップブックへのファイリングなどを毎日させられた。習字、そろばん、英語、ピアノも習わされると同時に、ダラス神学校ゆずりの“創造論”や“ディスペンセーション”などの教理も叩き込まれた。サボれば鉄拳制裁、要するに全くのスパルタ教育である。で、勉強が大嫌いになったのは言うまでもない。さらには、”教育者“や教育システム、上っ面の社会秩序そのものを信用しなくなった。ずいぶん冷めた子供になってしまった。

 

両親が自宅で教会を始める:
9歳の時に、両親が自宅で開拓伝道を開始。私の出身教会である「泉大津バイブルセンター」(現 南大阪聖書教会)を設立したのにともない、自分の部屋を開放、子供たちのベビーシッターや、弟らの入浴の世話などもし始めたが、”家が教会“ということで、学校でいじめを受けたりもした。しかし、何も楽しいことがないに等しい幼少時代であるにもかかわらず、不思議にも神への信仰は募るばかり。今にして思えば、全て神の導きであった。

 

定時制高校入学:
1980年、両親とのイザコザはあったものの、中学を卒業する時、働きながら家と教会を支えることを決意。大阪府立三国ヶ丘高校の定時制課程に入学。その入学を待たずに町工場で働き始めた。昼6日仕事して夜6日学校通いの毎日、日曜日は教会で礼拝後、個人伝道、チラシ配り、定例会議、ドブさらいなど町の清掃作業等の教会活動に終始、遊ぶ間は全くなかった。16歳のクリスマスの日に受洗。両親とそりが合わず17歳で独立、一人暮らしを始め、貧乏生活が始まった。それとともに心がすさみ、オートバイやケンカに明け暮れる生活であったが、なぜかこの時もキリストへの信仰を捨てることはなかった。

 

高校卒業後のひと時:
通常4年かかる定時制課程だが、仕事ばかりしていて一度留年し5年かけて卒業後、大学へは行かず、大手神学校長から引きもあったが神学校へも行かず、発電所などの探傷を行なう非破壊検査の仕事に就き、関西電力の大飯・美方・高浜などの原発に出向、検査のため炉心内部に何度も入る。当然給料は良く人並みの生活に。この頃「生まれ故郷」である米国を”帰阪後“初めて旅行し、将来の米国移住を決意。いっぽうで教会では、ダラス神学校教育をベースとした2年制の「信徒牧会者養成クラス(通称バイブル・リーダー養成クラス」を受講。特に説教学は、その権威であるH・ロビンソン博士やC.Wコーラー博士の影響を受けた本格的なもので、その甲斐あって二十歳を過ぎた時には教壇に立って200人ほどの人々の前で説教を担当し始めた。神学校に行かずに牧師になり、働きながら宣教するアイデアはこの頃確立された言えよう。

 

アメリカ移住:
しかし、出身教会が、たった10年ほどの間に、数人から300人へと膨れ上がる中で、教会内での序列やエゴ、矛盾や不条理、非常識等を見るに及んで忍びなくなり、ついに教会を離れ、1990年、25歳の時に米国移住。とりあえず、父が在籍した中部カリフォルニアのフレズノ・パシフィック大学へ留学。ここでも昼は庭師、夜は警備員をしながら勉強したが、やはり働く気持ちが強く、手に職を付けるために鮨屋修行を開始。当時はバブル全盛期だったので有名店が米国出店するケースが多く、神戸出身の名シェフの下で働けたのは幸いであった。26歳の時に一度帰阪して結婚、その後、妻を連れて米国へ戻り、カリフォルニアからテキサス州ダラスへ移住。憧れていた自身の生まれ故郷で新婚生活を送る。

 

南カリフォルニア、LA近郊へ引っ越す:
しかし当時のダラスは日本人が殆どおらず、アメリカに来たばかりの妻は英語が話せず友人もいない中でウツ状態に陥る。生活も苦しく、それに加えて大阪育ちの私には、ダラスは一地方都市の田舎でしかなく退屈であったために、そこを一年ほどで引き払い、賑やかな南カリフォルニアへ移住。その後ハンティントンビーチにあるルーテル教会に通い出し、メンバーシップを取り、正式に出身教会とは袂を分かった。夫婦共に外食産業に身を置き懸命に働いた結果、ようやく生活は安定。30歳を過ぎた頃、1995年、カリフォルニアに戻ってから3年でついに有名高級レストランのチーフに昇格。その後あちこちの店で“流れ板“をしながら見る見る収入は増え、35歳になる頃には夫婦で年間10万ドルを稼ぎ出し、LAタイムズにも載り、アメ車2台と大型バイクを3台所有、特にオートバイには数万ドルを改造費につぎ込み、全米を南はフロリダから北はアラスカまで走りまくりツーリング三昧、まさに”我が世の春“を謳歌したのだった。

 

訪れた転機:
いっぽうで、仕事自体は面白くやりがいがあるものの、40歳を過ぎた辺りから次第に体力が衰え始め、競争が激しく、連日夜遅くまで働き、元旦も仕事に明け暮れる生活に疲れを感じ始めた。そして、「俺はこんなことを繰り返すためにアメリカに来たのか?」といつしか自問するようになっていたが、ある日、所属しているルーテル教会で説教を依頼されてしまった。当時、同教会では牧師を巡ってゴタゴタがあり、私のほうに”お鉢が回ってきた“分けだが、日本を後にして早20年近くがたち、“神学”など何も覚えてはおらず、今さら説教など出来るわけがない。そんなある日、同教会では新会堂建立のセレモニーがあり、私はカリフォルニアロールを40本ほど献品するために、その新会堂へ”出前“したのだったが、果たしてそこで見た光景は驚くべきものであった。何と、真新しい会堂の正面にひな壇が設けられ、その壇上には、会堂を建てた大工やペンキ屋、建設費用を融資した銀行の職員、教会を始める許可を与える市の行政官などの人々が座り、その前には200人ばかりの教会メンバーらしき人々が嬉々としてセレモニーが始まるのを待っている。言うまでもなくここに集まった全員が、今日この日を迎えるために共に働き、会堂の完成を待ち侘びてきたのだ。何という彼らのすがすがしい顔だろうか。言葉では言い表せない平安に満たされた人々。

 

回心:
アメリカに来てから20年、私がこれまで走って来た、緊張と競争の道とは真逆の世界ではないか! などと、呆然と立ち尽くしてしまったところへ、今度は得体の知れない第二の衝撃に襲われた。いきなり40年前にタイムスリップしたかのように、頭の中が高速でフラッシュバックを開始、「この光景は以前に見たことがある!」、と心の中で叫んでいた。その光景は、まさに自分が30年、或いは40年ほど前に見たものと同じであった。それは、我が父と母がまだ若かった頃、彼らと人々が新会堂を建立した日のセレモニーそのものだったのである。そしてその時、「天に宝を蓄えよ!」(マタイの福音書6章20節)と神の声が聞こえた。キリストへの信仰は持っているものの、教会とは距離を置き、ビジネスと遊びに己の英知を集中し、その結果、時には人を押しのけ無理を通してきた自分。ハンマーで頭を殴られたほどの衝撃を受けた。そして、「俺が本当にやりたかったことはこれだ。。。神のもとへ帰ろう。。」

 

ミニストリーへの道:
20年ぶりとなる説教を無事に務め、これから少しずつ生活を変えようとし始めた時とんでもないことが起こった。何と45歳にして会社をクビになってしまったのだ。今までは羽振りが良かったが無収入のどん底状態へと叩き落されてしまう。しかし、すでに神からメッセージをいただき、牧師になる決意を固めた後だけにやることは決まっていた。とにかく一から神学を勉強しなおすことである。まず、16年間通ったルーテル教会を辞し、昔カリフォルニアに来た頃に通っていた第一バプテスト日本人教会で伝道師(いわば牧師見習い)として訓練をスタート。一方で在京のJTJ神学校の「2年制の牧師志願科」カリキュラムのDVDを丸ごと数十万円で購入、視聴、要約、レポートに没頭、8ヶ月で終らせたが、この時役に立ったのが、かつて数十年前、父からスパルタ教育を施された際に学んだ、読解と感想文、調べもの、さらにはファイリングシステム等の方法とダラス神学。そして南大阪聖書教会での信徒牧会者クラスで培った知識であった。忘れた頃になって全て役に立ったのである。

 

運命の再会:
一方で、経済的なことや、将来への進路などについて不安は募っていた。このまま第一バプテストにいるのか、自分で教会を始めるのか、日本へ帰るのか。はたまた大きな教会へ転籍するのか。実は同教会の属するサザン・バプテスト派は世界最大級の宗教勢力ではある。しかしどれも今一つピンと来ない中、気を巡らしていると、ある日、ひょんなことから驚くべき人物に出会う。父のダラス神学校時代の同級生であり、私が赤子の時に抱き上げて下さった、山田和明牧師と大谷文三牧師である。しかも何と彼らは近所に住んでおり、おまけに山田牧師は私のバイカーの友人と親しい中でもあった。不思議な神の導きに圧倒されつつ、彼らから、ダラス神学校が掲げる、聖書を信じ、科学的な聖書理解のもと、保守本流の超教派のヘリテージを受け継ぎ、「イエスのみ・信仰のみ・恵のみ」の道を行くことを勧められ、どこの教派にも属さない、“単立“ の教会を建てることを決意。それは奇しくも我が両親の歩んで来た道でもあった。

 

独立、そして任職:
2009年暮れ、第一バプテスト教会から独立、そして2010年春に帰阪。南大阪聖書教会にて、両親や家族、恩師である有賀喜一牧師と堀内牧師顕牧師らの承認のもと、46歳で按手を授かる。ミニストリーへの長い遠回りがついに終った。なお、米国で教会を興す場合、まず会社設立と同じくビジネスの認可を申請し、同時にNPOの申し込みをせねばならない。そして最後に税控除の認可取得に向けて難儀するのであるが、神の不思議な導きにより、驚くほどスムーズに手続きは進んだ。我が出身教会である「南大阪聖書教会」の名にあやかり、「南カリフォルニア聖書教会(Southern California Bible Church」、略して「南加聖書教会(So Cal Bible Church)」と命名。なお、良くありがちな”日本人教会“とは名乗っていない。確かに日本人向けのミニストリーではあるが、誰でも歓迎だからである。一時的にオフィス・スペースを有料で借りた頃もあったが、基本的に自宅でホーム・チャーチとして活動し、機会があればどこへでも行き、人々のために働きゴスペルを語る。これまでに職場や駐車場、事務所、セミナー、居酒屋、レストランや場末のバーなど、様々な場所で説教をさせていただいた。

 

一方で、2011年暮れから、「もの言う牧師のエッセー」をおもにクリスチャンでない人々のためにメール送信開始。さらに2013年からそれをSNSで拡散し始めた。これからも出来ることは何でもやり続けて行きたい。

 

この証しを読まれた全ての方々に、神の恵みと平安が豊かにありますように。アーメン。
栄光在主。